Vol.53 2013年6月8日(土)
実践ばかりだと、理論に適っているかどうか、私は不安になったり、心配になったりすることがあります。特に、成果が出ない時や、実践の意味や効用をそれなりの方々に説明する必要がある時、そう感じます。
理論
①(theory)
ア)個々の事実や認識を統一的に説明することのできる普遍性をもつ体系的知識。
イ)実践を無視した純粋な知識。この場合、一方では高尚な知識の意であるが、他方では無益だという意味の こともある。
ウ)ある問題についての特定の学者の見解・学説。
②論争。
[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]
『実践してナンボだ』『理論は役に立たん』・・・。理論を軽視する方々がいらっしゃいます。
人類は古くから続けてきました。実践を科学して、実践に潜む理論を探索・発見する。そして、発見した理論に沿って実践する。そしてまた実践を科学する・・・。人類はこのプロセスを通じて発展してきました。
理論と実践は、対義的に捉えるよりも、『循環している、それもスパイラルアップしながら』と捉えた方が、建設的かつ実態に近いのではないかと思います。
理論には、実践の理解を促進する効用もあります。
基礎的諸概念や理論に関する一定の、またできる限り正確な予備知識なしに、いきなり錯綜をきわめた史実の
森に分け入ろうとすることは、おそらく灯火なしに暗夜の道を行こうとするほど困難であり、場合によっては不可能
とさえなるであろう。
大塚久雄(2000)『共同体の基礎理論』岩波書店,pp.2

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私は日々、実践に埋没してしまっています。実践における勘所やポイント、理論について、ある程度のレベル以上で「語れるようなろう」と意識しています。
アージリスの盟友であったショーンは、自分のアクションのコツを対話、内省、実演を通じて、原理・原則として言語化できるようなひとのことを、内省的実践家(reflective practioner)と呼んだ。
金井壽宏(2005)『リーダーシップ入門』日本経済新聞社,pp.46

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理論は、当然ながら、万能ではありません。理論の軽視は、ある意味、正しいのです。
われわれの用いる諸概念や理論はそもそも限られた史実を基礎として構想されたものであり、つねに何らかの
程度で仮説(Hypothese)に過ぎず、したがってまた当然に一層豊富な史実に基づいて絶えず検討しなおされ、
訂正あるいは補充され、再構成されなければならない。
大塚久雄(2000)『共同体の基礎理論』岩波書店,pp.2
『実践においては、理論を意識しつつ、しかし、理論に則っとるだけではなく、理論の枠を意図してはみ出して実践する』必要があります。
持論めいたものを述べさせていただきました。この持論めいたもの、正直申せば、私にとっては実践が難しく、また半信半疑な思いがあります。「それじゃ持論じゃないだろう」。おっしゃる通りです(冷汗)。
私は、つい5、6年程ほど前まで、理論も何も知らず(あまり考えずに)、ただがむしゃらに実践していたばかりでし
た。理論を知っていたり、分かっていたりしたら、失敗しなかったり、うまくいったことが、もっと多かったように思い
ます。でも、理論を知っていたり、分かっていたら、「突破できなかったのではないか」「潰れていたんではないか」
と思うことも少なからずあります。上記の持論めいたものの実践が難しいと感じる半信半疑な思いは、私の経験に
根ざしたものです。
乗り越える課題の困難の程度の相違によって、あるいは理解しようとする実践の複雑さの程度の違いによって、はたまた、実践する者の何がしかの特性の異なりによって、理論の効用は増減するのでしょう。
それらの複雑な関連を私がそれなりに分かり、それなりに実践することができるのはいつの頃か。
長い年月をかけ徐々に分り、あるいはある時一気に分り、実践できる領域は着実に増えていくように思います。
おもしろい人生が待っています。